■7月1日/飾り山笠公開・当番町お汐井とり■
 15日間にわたる祭りのはじまりは、博多を中心に建てられた飾り山笠12本がご神入れ の後公開される。夕方には、舁き山笠の当番町が清めの砂をとるために東区の箱崎浜へ。
■7月9日/全流れお汐井とり■
 完成した七流れの舁き山笠の前に、それぞれの流れの舁き手が集合。東区の箱崎浜まで駆けて”お汐井”をとる。行事に出掛ける前、身に振りかけて、事故のないよう祈願する。
■7月10日/流れ舁き■
 いよいよ舁き山笠の出番です。午後4時から6時にかけ、流れごとに、それぞれの流れ 区域内を舁き廻る。
■7月11日/朝山(祝儀山)■
 午前5時から6時にかけて舁き出される。功績のあった年寄りが招かれ、酒や肴が振るまわれる。山笠に子供が上がることが許され、みんなで祭りを祝いあう。
■同日/他流れ舁き■
 他の流れの地域に出ることからこの名がある。櫛田神社に舁き入れ、
”櫛田入り”の練習する流れもある。
■7月12日/追い山ならし■
 午後3時59分、一番山の”櫛田入り”で始まる。昼間で、走る距離が1キロ短い以外は 『追い山笠』と同じ。祭り気分が盛り上がってくる。
■7月13日/集団山見せ■
 午後3時半から、博多区呉服町交差点から中央区天神・市役所前までの国道202号 (明治通)で行われる。昭和37年、福岡市の要請で始められた行事で、舁き山笠が 那珂川を渡って城下町・福岡に舁き入れるのは、この時だけ。
■7月14日/流れ舁き■
 夕方、半日に迫った『追い山笠』を前に最後の調整。
■7月15日/追い山笠■
 午前4時59分の一番笠”櫛田入り”で、祭りは最高潮に達する。七流れの舁き山笠は 5分置きにスタート、払暁の博多の街えお5キロにわたって快走する。沿道からは勢い水 がかけられ、『オイッサ』『オイッサ』の掛け声も迫力の頂点に達し、七流れが『櫛田入り』と『コース』に速さを競う。
           □病魔退治□
 仁治2年(1241年)、博多では疫病が流行し、町全体が危機に見舞われた。 そこで、承天寺の開祖、聖一国師弁円が人々のかつぐ施餓鬼棚(せがきだな) に乗り、町々を回っては甘露水(祈祷水)を振りまいて祈祷した。
 その後、病魔は退散し博多の町は活気を取り戻した。やがて施餓鬼棚に人形 が飾られるようになり現在の山笠に発展したといわれている。

年表で知る の生い立ち

 仁治2年(1241年)  聖一国史が病魔退散の為、施餓鬼棚に乗っり博多市中を回る(有力な起源説)
 康正年間(1490年代)  博多山笠六本となる
 天正15年(1587年)  博多復興の為、太閣秀吉が町割り。現在の流れの基礎ができる。
 寛文9年(1669年)  6本の山笠表題や、当番町名など記載のある文書の最古。
 貞享4年(1688年)  追い山笠が始まる。
 宝永5年(1708年)  さし山笠、堂山笠の区分始まる。
 寛保3年(1734年)  土居町筋に勢ぞろい始め。
 明治5年(1872年)  福島県の命令で中止。
 明治16年(1883年)  11年ぶり本格的山笠復活。
 明治38年(1905年)  雷鳴を太鼓の音と聴き違った福神流れが早く出発、紛議となる。
 以後、福神流れは「能当番」だけになる。(昭和39年まで)
 明治43年(1910年)  電車架線の為、かき山笠が低くなる。
 昭和19年(1944年)  映画「陸軍」に出演。
 昭和20年(1945年)  福岡大空襲の為、中止。
 昭和23年(1948年)  山笠復活。
 昭和30年(1955年)  博多祇園山笠復興会発足。
 昭和37年(1962年)  集団山見せが始まる。
 昭和41年(1966年)  町界町名整理で流れの一部編成替え。
 昭和53年(1978年)  東京で開催の全国郷土祭に七流合同で参加。
 昭和54年(1979年)  国の重要無形民俗文化財に指定される。
 昭和55年(1980年)  ハワイのアロハ・ウィークフェスティバルに参加。
 昭和63年(1988年)  オーストラリア・ブリスベーンと福岡市の姉妹都市ニュージランド・オークランドで  
 山笠行事を披露。
 平成元年(1998年)  市制百年記念「アジア太平洋博」に舁き山笠七流れが参加。飾り山笠も建設。
 平成2年(1990年)  大阪国際花と緑の博覧会に2本参加。
 平成3年(1991年)  博多山笠750年記念行事。
 平成6年(1994年)  7月23,24日、平安建都1200年記念行事(京都)参加。



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