大競争時代

公文俊平



近年、大競争とかメガコンペティション(megacompetition,mega-competition)という言葉をよく目にする。最近発表された電気通信審議会の情報通信21世紀ビジョンに関する中間報告も、その第一章が「大競争時代の到来」となっていて、そこでは「大競争 (メガコンペティション) とは、新たなプレイヤーの登場とプレイヤー間の体力格差の拡大により、一層熾烈な段階を迎えたグローバルな競争状態を表している」と述べられている。

文脈から判断すると、そこでいう新たなプレイヤーとはアジアおよびラテンアメリカ諸国を意味している。また、プレイヤー間の体力格差の拡大とは、なかんずく、景気拡大を続けるアメリカと停滞が続いている日本の間の格差の拡大を意味しているらしい。しかし、「大競争」という言葉のこのような意味での使い方は、私にとっては目新しいものだ。そこで、この言葉の使われ方を調べてみようと思って、インターネットを検索してみた。

そうすると、英語でも、日本語でも、たちまち多数の用例が見つかった。しかも、驚いたことに、どちらの場合にも、日本の文書の割合が圧倒的に多かった。どうやらこの言葉は、世界の他の場所に比べて、日本の中でもっとも広く使われるようになっているのかもしれない。しかも、個々の用例をずっと見ていくと、どうやらその意味も微妙に、しかもなかなか興味深い形で、次第に変化してきているように思われる。そのあたりを、もう少し詳しくみてみよう。

もともと「大競争」ということがいわれるようになったのは、冷戦の終焉が契機だった。それまでの世界は、政治的にはもちろん経済的取引の面でも、西の自由主義陣営と東の共産主義陣営という二つの世界(とそして、両陣営にとっての草刈り場としてのいわゆる第三世界)に大きく分裂していたのだが、冷戦の終焉がその壁を取り払ってしまった。とりわけ、西側のアメリカやヨーロッパのビジネスマンの目からすると、共産圏の広大な市場が一気に参入可能になったのである。

つまり、彼らにとっては、競争的な企業活動の展開できる領域が、にわかに「グローバル」に拡大したことになる。電通総研の福川伸次所長は、この間の事情をこう説明している。「東西冷戦が終わり、市場経済システムと自由貿易主義は、国際社会において、経済運営の共通の認識となった。ボーダーレス経済の下では、企業は、利益を目指して、商品、資本、技術、情報を世界中に自由に移転させるばかりでなく、地球上の最も有利な条件のところに立地することが可能となった。

企業の取引は、ますます国境を超えて活発となり、どの国のマーケットも国際社会と介離した動きや価格形成は許されなくなる。正に、世界大の大競争というべき状況を招来しているといってよい。」(福川伸次の目http://www.dihs.co.jp/CHAIRMAN/CHAIRMAN1.HTML)ここで、「どの国のマーケットも国際社会と介離した動きや価格形成は許されなくなる」と福川氏がいう場合の「国」とは、さしあたり、これまでは「市場経済システムと自由貿易主義」を採用していなかった共産圏の国々をさしているに違いない。

その意味では、「大競争」とは、もともと、新しく開かれた旧共産圏の (あるいは共産主義の影響下にあった第三世界の地域の) 市場に競って参入しようとする、自由世界の企業にとっての進軍ラッパのような響きをもった言葉だったはずである。しかし、日本人は反省がすきだ。バブルの崩壊に呆然となり、景気の回復がいっこうにはかばかしくない中で、「なぜ、どうして」と思い始めた1990年代の日本で、「国際社会と介離した動きや価格形成」が行われている国とは、実はわが日本のことに他ならないのではないかといった反省や、新たな「大競争」の時代に、あらためて苛烈な競争にさらされざるをえなくなったのは、これまでは政府の手厚い保護や指導の下にあった日本の市場や企業自身なのではないかといった認識が、広く定着するまでにはさほどの時間はかからなかったように思われる。

たとえば、NTT のある文書は、世界をおおう大競争の潮流は日本をも巻き込んでいると指摘している。現に、移動体キャリアー、ケーブルテレビのオペレーター、第二種通信事業などの分野では、外国事業者がいっせいに日本に進出してこようとし始めた。すでに衛星放送では、外国勢の大々的な参入が起こっている。とくに日本の場合、ケーブルテレビやインターネットのような通信インフラの整備が遅れている、というのである。(NTT 、http://www.nttinfo.ntt.jp/nttformat/NTT%20format/text/text.html )そこから今度は、「大競争」の時代に第一に必要とされるのは、それに対応しうるための自己改革だという自覚、あるいは危機意識が生まれてくる。

第一勧銀の企業計画を説明した文書には、こんな表現が見られる。「21世紀に向かって、われわれは市場経済化と規制緩和の動きの増大を目にしている。そのどちらも、世界中で貿易障壁を減少させ、グローバル経済での「大競争」を生み出している。その結果、国際金融市場にも、統合の増大、技術革新、および自由化といった形での転換が進行している。それゆえ、21世紀においても栄えて行こうとする金融機関たるもの、変化する状況へのすばやい対応と、変化する顧客のニーズの充足とが必要となる。」 (第一勧銀、http://www.infoweb.ne.jp/dkb/hajimeni/issues-e.html ) そこからでてくるのは、自己再強化努力のよびかけである。なによりもまず、新時代に対応するための努力は、日本産業の基幹をなしている生産システムそのものの再編成を通じて行われなければならない。(さくら銀行、http://www.sakura.co.jp/sir/research/mreview/mr9601-e.htm)

しかし、それだけでは足りない。さらに、「競争」行動のみられる分野そのものの範囲を、もっと拡げて行かなければならない。つまり、この大競争時代にあっては、競争に成功した分野がこれまでは工業生産に限られていたのを、今後はマーケティングや流通の分野にも拡げていくことによって、日本経済全体の高コスト構造を是正していくことが急務なのである。(経団連、http://www.keidanren.or.jp/english/policy/pol039/p039-01.html)もちろん、競争を制限していたこれまでの規制のシステムは撤廃されなければならないし、新しい技術分野や事業、とりわけ創造性に富んだソフトウェアの開発や、ベンチャー・ビジネスの展開を妨げてきた社会的文化的要因の除去にも留意する必要がある。

そうでないと、情報通信分野での日米格差はますます拡がっていきかねないのである。(NTT、前掲文書)。それはその通りだろう。しかし、「大競争」時代の到来の意味は、それに尽きるものだろうか。どうやら、アメリカにはさらにその先を見越した考え方が生まれつつあるようだ。たとえば、ビジネス・コンサルタントのジェームズ・ムーアの近著(『競争の死』、ハーパー・ビジネス社、1996)と、複雑系の経済理論の開拓者ブライアン・アーサーの最近の論文(「複雑系の経済学を解き明かす "収穫逓増" の法則」DHBDec.-Jan. 1997)は、「競争」そのものの意味を見直せという視角から、ほとんど同じ趣旨の議論を展開している。

すなわち、今日のような急激で全面的な技術革新の時代には、これまでのような同業者を相手にした競争の観念は意味を失ってしまうという。今日の経営者になによりも必要なのは、一つの製品で競争したり一つの会社を起こしたりすることではなくて、多種多様な企業群や、はては消費者・ユーザーをも巻き込んだ新しい「ビジネス生態系」を構想し、多くの人々にその可能性と意義とを信じ込ませ、彼らと協働しつつその実現を主導して行こうとする、明確なビジョンと強い意欲だというのである。私も、このような見方に賛成である。それにつけ加えるとすれば、かりに自分にはそのようなビジョンを生み出す力がないとしても、誰か他の主体が始めたその種の試みの意義をいち早く理解して、協働に参加していく能力(つまり、大きな新しい流れに乗っていく能力)もまた、極めて重要かつ有意義だという点だろう。