日本社会の組織に対する盲目的アイデンティティー




孔 健

 今回の野村証券と第一勧銀の事件はいかにも日本的な事件だと思う。事件の一方の主役である総会屋といわれる人物は個人だが、野村証券側と第一勧銀側は、個人というよりも企業という組織の一員でしかない。つまり彼らは、たしかに個人として逮捕されたが、別に彼らが私腹を肥やしたわけではない。つまり”職務”としてやったにすぎない。320億円ともいわれる巨額の不正融資をしながら、おそらく、第一勧銀の逮捕された役員たちは百万単位どころか、一銭も懐に入れていないのではないか。何百億も不正融資をした犯罪者として逮捕されながら、その不正融資の金を一銭も手にしていない、またするつもりもなかった(だろうと思う)という犯罪者とは一体”何者なのか”と思ってしまう。おそらく、こうした犯罪者が出るのは世界広しといえども、日本くらいなものではないか。不思議な犯罪者と言わざるを得ない。

 なぜ、こうした不思議としかいいようのない犯罪者が出るのか。
 それは、日本人が組織という共同体に対し盲目的といっていいほどのアイデンティティを持っているからだろうと思う。おそらく総会屋という、これも世界に例を見ない闇の紳士を生む土壌もまた、こうした日本の企業という共同体の持つ、日本独自の在り方にあるのではないか。つまり、日本の企業という共同体は、先ほども述べたように構成者の盲目的といっていいほどのアイデンティティあるいは忠誠心によって支えられている。それ自体は必ずしもマイナスではない。そのことにより組織は大きなパワーを持つことができるからだ。しかし、本来の在り方から言えば、やはり健全とはいいがたい。

中国では、組織に対する盲目的なアイデンティティを持つことはない。ただし、それは欧米のように個という自我が確立されているからということでもない。ただ、中国人は、基本的にどんな組織も信用していない。中国人が信用しているものは家族という共同体だけだ。それは五千年の歴史の中で、多くの王朝の栄枯盛衰を見てきたからだといわれている。王朝が滅べば、王族たちは一夜にして下僕となる。王朝の役人たちも例外ではない。組織というものは、いつかは滅びる。そして、いつ滅んでも不思議ではないと思っている。そんな組織に対し盲目的なアイデンティティなど持ちようがない。

 しかし、日本人はなぜか、自分の属(ゾク)している組織という共同体は半永久的に続く、少なくとも自分が生きている間、と生理的に信じているフシがある。
 これは、日本の王朝が滅んでも、その王族たちがいきなり下僕になるというケースはあまりないことによるのではないか。王朝を天皇家とすれば、天皇家は起こって以来一度も滅亡するという歴史を持っていない。それどころか、歴史の転換期には必ず、シンボリックな意味も含め重要な役割を果たしてきている。

 王朝を、時の権力体制と見た場合、藤原氏が権力を失い武家が新しい権力者として”王朝”を確立しても、彼らが下僕になったりはしない。また鎌倉幕府が滅んだからといって、鎌倉幕府を支えた貴族、あるいは、一族、大名が下僕になったりはしない。 地方の豪族として残ったりして、それなりの勢力 や権威を維持しつづけているケースも珍しくはない。つまり、中国の栄枯盛衰は極めてドライで過酷なものだが、日本の栄枯盛衰は中国に比べ、どちらかと言えばウエットで、その過酷さも絶対的なものではなく相対的なものであるように思える。だからこそ、日本人は生理的に自分の所属する組織あるいは共同体が半永久的なものという感覚を持っているのではないか。そのため、組織・共同体に対し盲目的なアイデンティティを持つ。そして、それが組織・共同体の日本的風土となる。さらに言えば、それを現代においても、持ちつづけている。そうした背景があって野村証券や第一勧銀の事件が起きるのではないかと思う。