今日も楽しく金融業界批判




多比羅 悟

「金融ビッグバンを控え、金融業界はその準備に余念がない」という書き出しで始まる記事をもっと目にしても良さそうなものであるが、相対的にはあまり多くない。10年前にさんざん騒がれたあげく、ろくに変わったものがなかった「金融自由化」に懲りてのことではなさそうだ。むしろ、金融業界の不祥事や悪化した経営状態に関する記事の方がはるかに多いからだ。

 銀行、証券、生保などの金融業界はマスコミから袋叩きである。金融機関というのは、一般企業と変わることなく、ろくでもないことをたっぷりとしでかしながら、産業界に君臨してきたわけだから、批判的な記事が一般から歓迎されるのも当然かも知れない。まして、今まで、書く立場の人間に対して、金融機関批判には制約が課せられていたので、鬱憤晴らしの意味で、あれこれと書き立てられるのもあり得ることだ。私自身、以前、(と言っても1年ぐらい前なのでごく最近までと言っても良いと思う)、ある記事において「○○銀行の格付けは地銀より低い」とまぎれもない事実を書いたが、編集者によって大幅に削除され、まるでその銀行の広報部が書くような記事にされてしまったことがある。今や、格調高い雑誌でさえ、潰れる生保、潰れる銀行などと特集をしているのだから、マスコミも身勝手ではある。

 率直に言って、最近の金融機関批判は目新しいものではない。かねてより、海外の識者からは、日本の金融機関への批判は強かった。素直にその意見に耳を傾ければ良かったのだが、我々は、金融機関批判が日本社会への批判に繋がると恐れたのか、金融機関が日本経済を支えたなどと、あえてポイントをずらした議論を展開することで、問題を解決しようとはしなかった。今、我々は、海外の識者達と根拠を同じくするいわば焼き直し版の金融機関批判を行っているが、それはもちろん、金融機関への批判であって、自分自身を含む日本人を批判しているわけではない。身勝手なものである。

 さて、ことは金融業界だけにおさまらず、大蔵官僚に対する風当たりも強まっている。いまだに、築地あたりの料亭の前でじっと見ていれば、大蔵官僚が車から降りてすばやく門をくぐり抜ける風景に出くわす。おそらく、誰かがその費用を払ってくれる。地方の税務署へ行くと、大蔵省から赴任した若い税務署長が出迎えて、宴を催してくれる。ホテルもおさえてくれる。税務署の経費で支払いがなされる。これらは慣習化しているので多くの人が知っている。当然ながら、料亭、ホテル、招待客、接待客、ハイヤーの運転手まで、知っている人達はなんらかの恩恵を受けているので、この慣習を歓迎している。身勝手と言えなくもない。

 天下りや接待の問題は昔からあったが、少なくとも能力については、日本の官僚は世界一優秀で、彼らのおかげで日本は経済大国になれたということになっていた。ところが、いまや、その優秀性が疑問視されている。これが最近の官僚批判の特徴だ。カルフ・ウォルフレンは、著書の中で、容赦なく、大蔵官僚は国の舵取りをする人間としては「無能」であると切り捨てた。彼らも、一般企業の会社員なみに、間違いを繰り返し、私利私欲をはかっていながら、日本の国政に君臨してきたわけだから、人々が批判的な論調に溜飲を下げるのも当然かも知れない。ある意味では、モラルの問題であれば救われようもあるが、能力を見限られたのでは、大蔵官僚にとって、これ以上のない屈辱的評価であろう。

以前は、日本の官僚が褒め称えられるたびに、日本人全体が誉められた気になって、かなり満足感を得ていた。今、我々は官僚達を罵倒するが、それは言うまでもなく、官僚を罵倒しているのであって、自分自身を含む日本人全体を罵倒しているのではない。身勝手である。

 金融機関や官僚に知人が大勢いるため、公然と批判をすることはないにせよ、少なくとも好意的ではなかった。それが、最近、あまり叩かれるので、むしろ、彼らを弁護したくなり、あえて問題を日本全体の性癖にすり替えて、責任の所在をうやむやにするかのごとき論を展開し始めた。私も相当身勝手である。