「郷に入れば、郷にけっこう従っている母子」




甲田 益也子

 今、私は北海道に来ている。私のホームタウンはいつのまにか高原の町ということになっていた。そんな言い様もあるのかと笑っていたら、確かに空気が高原だったので驚いた。住んでいる時は気がつかなかった。内にいて比較するものを知らなかったからか。ただの山合いの里が高原と呼ばれると素敵な感じに変身する。あくまで聞こえだけだが。

 そして、さらに似たような表現をさせて頂くと、実家はジャンクなものであふれ、実にファンキーだった。今でこそ私はなるべく身の回りはナチュラルでなんて思っているが、育ってきた環境は化学(合成?)とともにだ。人工甘味料や着色料入りの食品は当然のこと。大量生産でできた安いものに囲まれていた。ガラスの砂糖入れがカッコ悪くて、早くプラスティックのに変えて欲しかった。言うまでもなく、今はできれば逆にしたい気持。自分って信用できないなあ。思っていることがすっかり変わっている。そしてその変わり様に気づかないことが多い。人に指摘されて、「とんでもない、そんなこと言うはずない。」などと憤慨する場面がままある。自分のことはさて置き、我が家にはそんな状況が変わらずあった。いや、もしかするとエスカレートしているかもしれない。訳の分からない存在がいっぱいだ。

 東京では神経質に思われていないらしい私が(自分ではそう思っているのだが)驚くくらい大雑把が繰り広げられている。家の人は底抜けにワイルド(粗野)だ。

 子供の湿疹の敵がわんさかあって、悪いけどもうどうにでもなれという気になってしまう。「なんだかお前は可哀そうだ。」と母によく言われている名ばかりの猟犬の黒い毛、ほこり、いろんな虫、蜘蛛の巣。子供はハイハイ真っ盛りで、手をふいてもふいてもきりがない。当然、その手でかゆいところを掻いている。にこにこしながら汚いものを触っているのを見ると、毎回止めるのもしのびない。ほこりをかぶった強力殺虫剤をしっかり握っていた。蛍光色の浴用剤に手を入れる。母は「別府かどこかの湯の花って書いてあったから湿疹にいいはず」と言って、執拗に湯船に入れるように勧める。そんなに言うならと思って入れたら光るオレンジ色がわあっとひろがった。父親は掻きむしっている孫の首に「キンカンを塗ったらどうだ」と言っているらしい。

 ジャンクな食べ物をちょっとずつ食べさせているのは母だ。菓子パンの豆とか、アイスクリーム。今日は買ってきたおむすびの梅をなめさせていた。案の定、すっぱい顔をしていた。「でも、吐き出しはしないね。」と言って、何か納得した様子。ちょっと怖い。  たった今起きたばかりの我が子を見ると、服のせいもあるが、赤茶の頬をしてモンゴルの遊牧民顔になっている。丈夫さに磨きがかかっている様子。

 家の乱雑さは、人柄の多分によるが、両親ともとても忙しいということは一応付け加えておこう。荒れた庭の雑草がなぜか今朝、きれいになっていたらしい。見るに見かねたよその人が草取りしてくれたらしい。昔話みたいだ。果たして恩返しはあるのだろうか。現在人員は増えていても粗野プラス2の家庭だからなあ。ああ、また、妹の子供の名前で呼ばれている、、、。