「中国流本音(建前)」




孔健


 中国の友人から「日本人は本音と建て前が違うから困る」とよく言われる。ある友人は日中合弁会社で仕事をしていて、従業員の休日について、意見が対立した。結局、資本の比率などで日本側の意見が採用されることになった。ところが、いったん決まったとたん、その担当者は、「本当はあなたのいう方がこちらではいいと思うんですけどね・・・」と言ったという。

それまでそんなことはおくびにも出さずに、強行に日本案を採用すべきだと論じていたのに、である。私の友人は思わず、「じゃあ、あれ(日本案)はあなたの意見ではないのか」と聞くと、彼は「あれは本社の考えでね」とケロリとした顔で言う。かれは自分がいいとは思ってもいない案を、さも自分の意見のように主張していた。そして、友人はつくづく言うのである。「日本人は本音を言う自分と、建前をいう自分という違う二人がいる」と。

 私は、なるほどうまいことを言うなと思った。
 だからと言って、中国人には「本音と建前」はないわけではない。ちゃんとある。
 ただ、日本人の「本音と建前」とは違う。
 日本に来て、よく受ける質問に「中国は何かあるとすぐ軍国主義、反日ということを言うけれど、あれは単に政治的建前で、本当はもうそんなこと思ってないんじゃないか。だって今の日本に軍国主義なんて生まれっこないのは君にもわかるだろう」っといった主旨のものがある。私は日本に来て長いから、その言うところはよくわかる。日本人のほとんどは今の日本に軍国主義がででくるなんてことは思ってはいない。

 はっきり言えば、中国の「日本の軍国主義が・・・」というのは政治的建前である。では本音は、そんなことは思ってもいないのか、というとそうではない。「本音」のところでも実はそう思っている。

 そう言うと、日本人は、「それじゃあ、本音と建前ということににならないじゃないか」と言う。
 ところが、中国ではそうなる。
 つまり中国の「建前」は大原則よ考えていただければいい。大原則であるが、実際のところで、その大原則そのままにとらわれることはなく、臨機応変に、というのが「本音」ということになる。だから、中国の「建前」と「本音」は前後左右、上下に離れることはあっても、その二つが根本的に違う、あるいは裏と表、反対であるということはまずない。

 一見、「建前」とは逆のように見えても、根本は同じなのである。
 それが中国流の「本音」と「建前」なのである。