ネットワーク上でのコミュニケーションの「礼儀」




公文俊平


                                      最初にパソコン通信を始めて以来、もう十年以上になるが、考えてみれば私は、 この国での「生粋の?」ネティズンたちのコミュニケーションに触れたことはあま りなかったのかもしれない。最近、いくつかのメーリング・リストに参加して、そ こでの典型的なやりとりを見ていて、つくづくその感を深くした。

 なかでも驚いたのは、相手の発言に言及するときは、徹底的に全文引用をするの が「礼儀」だと主張する人の存在である。全文引用まではさすがにしないにしても 、相手の発言に言及する時には、自分の言葉で要約あるいは書き換えを行うのでは なしに、原文を直接引用すべきだという考え方は、広く普及しているようだ。事実 、コピー& ペーストで簡単にそれができるので、一々自分の言葉にするよりは、相 手の言葉を鸚鵡返しに引用する方がずっと簡単でもあろう。

しかし、そのために、 引用文の中に別の人の発言からの引用文が入り、さらにその中にさらに別の人の発 言からの引用文が入っているという具合に、引用の多重入れ子状態が、容易に発生しがちとなる。そうなると、卒然と読んだのでは、さっぱり何のことだかわからなくなってしまう。だが、それを何度も注意深く読み返してから自分の意見を述べる、というやり方が推奨されているらしい。

 しかし、あくまでもこれは程度の問題だろう。たしかに、相手の発言をさっと見 ただけで誤解や勘違いをしてしまい、見当はずれのコメントをつけるのは、「礼儀」に反する。相手の発言の趣旨を勝手にねじまげた上で、いろいろと論評したり批判攻撃するにいたっては、何をかいわんやである。もちろん、それらの場合には、コミュニケーション自体が支障をきたす。

 しかし、だからといって、いっさいの要約を拒否して、常に自分の発言の (全文)引用を要求したり、あるいは、他人の発言を (全文) 引用した上でのみコメントするというやり方も、これまた行き過ぎではないのか。われわれが、相手の発言を自分の言葉で言い直したり、要約してみたりするのは、自分が相手のいうことを正しく理解しているかどうかのテストをすることにもなっている。それを見て、相手は、その発言が正しく理解されているかを確認することができるのである。単に鸚鵡返しに引用されている場合には、相手がもとの発言をどこまで正確に理解しているかを確かめるすべはない。まして全文引用となると、そもそも「引用」ですらなくなってしまう。 (そんなことをするくらいなら、相手のもとの発言にリンクを張っておき、必要ならもとの発言に戻って読めるようにしておけばいいだろう。)

コミュニケーションのさいに、われわれがまず試みなくてはならないことは、相手の発言を自分の言葉で言い直して相手にフィードバックしてみることではないだろうか。そして、その作業を通じて、自分の理解の程度を相手に対して示すことではないだろうか。私は、それこそがネットワークでの「礼儀」というものだと思う。そこに誤解があれば、それを相手があらためて指摘するところから、実のあるコミュニケーションが始まるといってもいいくらいだ。誤解を恐れていては、コミュニケーション自体が不可能になる。引用、とりわけ全文引用にこだわりすぎると、本来のコミュニケーションはかえっておろそかになってしまいはしないか。