インターネットに賭けるアメリカ




公文 俊平


 1993-94 年の第一次ゴールドラッシュ (双方向テレビ・ブーム) と95-96 年の 第二次ゴールドラッシュ (インターネット・ブーム) が終わったところで、第二期 に入った米国のクリントン=ゴア政権が新しい動きを見せている。それは、「イン ターネット」を今や国際政治の新しい理念としてグローバルに推進する一方、その 「哲学」を明確にして合意の基盤を作り、さらにそれをプラットフォームにする民 主主義的な行政やグローバルな商取引の仕組みを構築していこうとする動きである。
 まず、「インターネット」という言葉は今や、単なる技術や経済の言葉ではない 。それは、今後の国際社会いや地球社会における、21世紀に向けての政治的な指導 理念として、カール・シュミットの意味での「政治」の言葉になりつつある。つま り、「敵」と「味方」を分ける符丁になりつつあるといってもいい。それを象徴的 に示しているのが、今年の大統領教書におけるこの言葉の出現頻度の高さである。

 誰でも知っているように、20世紀の「パクス・アメリカーナ」の下では、「平和 と繁栄」が国際社会の追求すべき二大目標とされ、それを実現するための政治的な 手段が、多元的民主主義と自由競争市場だとされていた。近年、多元的民主主義と 自由競争市場の政治的手段としての普遍妥当性については、ほかならぬアメリカ自 体の内部でもさまざまな反省がおこりつつあるが、クリントン=ゴア政権は、依然 としてこの二つの理念を高く掲げ続けるつもりでいることは、今回のデンバー・サ ミットが証明した通りである。そして1994年3 月のITU のブエノスアイレス会議で ゴア副大統領が行った演説の中で示された「ゴア・ドクトリン」 (これは私の命名 であって、ご本人はそういう言い方はしていない) は、新しい情報通信技術を具現 した NII-GIIは、民主主義の普及や持続的経済発展や環境問題の緩和にとってのグ ローバルなインフラとなるという認識を、すでに示していた。第二期クリントン= ゴア政権は、このような見方をさらに発展させて、「インターネット」を新情報通 信技術のシンボルとして、政治的に採用することを決めたといってよいだろう。

もちろん、これまでの「民主主義」や「自由市場」などの符丁と同様、「インターネット」という言葉の正確な定義は二の次なのであって、何はともあれ、それを 理念として熱烈に支持するかどうかが、政治陣営を分ける踏み絵になるのである。( 昔もそうだったが、アメリカの下風に立ちたくないなどの理由で、「哲人政治」や 「計画経済」の理念を、それに対抗して掲げることは、熱い冷たいを問わず「戦争 」を引き起こすきっかけになった。すくなくとも、アメリカをはっきり敵にまわす結果になった。それは今回も同じことで、「インターネット」という言葉はなんと しても使いたくないので、「B-ISDN」とか「統合ディジタル・ネットワーク」等々 、何か別の言葉を自分たちの理念としては掲げようとするのは、国際政治のレベル での敵対行動あるいは分派行動とみなされかねない。)

 実は、このレベルでは、アメリカのリーダーシップはほぼ確立しつつあるといっ てよいように思われる。すでに東南アジアの諸国は、シンガポールやマレーシアを も含めて、この点ではアメリカ的インターネット・イデオロギーの全面的な支持に 回る姿勢を鮮明にしている。一年前のシンガポール政府のもたつきぶりや、インタ ーネットに時に示していた反感が嘘のようである。シンガポールがこの 6月から商 用サービスを開始した「シンガポール・ワン」は、新たに建設されたATM 幹線網に 、既存の電話あるいはケーブル回線からADSLあるいはケーブルモデムの技術を使っ て高速接続する、インターネット網そのものである。

 インターネットは第二に、他のさまざまな政策の是非を評価するための基準をそ こから引き出してくる事のできる「哲学」になった。クリントン=ゴア政権は、イ ンターネットを「 (人工) 生命系」あるいは「複雑系」のメタファーで理解しよう としている。それは、たとえば、ボブ・メトカーフがインターネットを外側からの 制御や修復を常に必要とする「機械系」だと考えているのとは、対極の立場である 。インターネットが (自律分散的な) 生命系であるならば、それは、基本的にそれ 自身の力で存続し進化していく能力をもっている。四六時中監視の目を光らせ、少 しでも予定のコースをはずれれればただちに制御するといった必要はないのである。

 とはいえ、そのようなインターネットが、常に人間 (少なくともある一部の人間) にとって有用なものとなる方向に向かって進化し続けるという保証は、もちろんな い。また、生命系の常として、カオスや停滞に向かって発散あるいは収縮して死ん でしまう可能性もある。だから、人間 (というかインターネットの外部にある主体 としての「政府」) がしなければならないなことは、インターネットがその中で生 存し続ける事が可能なような「環境」を整備することと同時に、インターネットを 人間にとってより有用な存在としうるような、「遺伝子操作」 (品種改良) の努力 である。たとえばハッカーの攻撃に強い体質を、インターネットの中に組み込んで やる必要がある。混雑に強い体質も同様である、等々。これがクリントン=ゴア政 権の「インターネット政府規制論」の根本にある哲学なのである。 (もちろん、6 月に米国最高裁が下した「通信品位法」の違憲判決に見られるように、インターネ ットの具体的な規制のあり方をめぐる米国の議会や行政府の判断をそのまま受け入 れるべきだとする理由はない。大きな合意の枠の中での論議は、大いに行われてし かるべきだろう。)

 インターネットはさらに、未来の情報社会の基盤をなす新種の情報通信システム であって、その意味では、「情報化」とは何よりも「インターネット化」であり、 「マルチメディア」とは実は「インターネット」のことであり、これまで言われて きたNII やGII の具体的な中身もまた、インターネットにほかならなかったのであ る。この意味でのインターネットは、既存の電話や放送とは質的に異なっている。 ところが、1996年に改正された米国の電気通信法は、 (日本でのNTT の「経営形態 論」などと同様) 1980年代の旧いイシューに答えるための、いわば後ろ向きの制度 的枠組みを与えるものにすぎない。つまり、既存の市内と長距離電話、ケーブルテ レビ、放送などの産業の間の、垣根を越えた競争の枠組みを準備しようとするもの にすぎない。新しく台頭してくる情報通信システム、とりわけインターネットを対 象にした規制 (あるいは非規制) の枠組みを作ったり、インターネットと他の伝統 的情報通信産業との間の関係を定めたりするための、法律ではないのである。とい うことは、これから改めてそのような法律の制定が検討されなければならない事を 意味する。

 インターネットはさらに、「政府の再発明」のための必要不可欠なインフラとな る。つまり「電子政府」とは実は「インターネット政府」にほかならないのである 。 (ゴアは今年の初めに公表された『アクセス・アメリカ』の中で、この点につい ての認識が不十分だった事を自己批判している) 。インターネットはまた、これか らのグローバルな電子商取引の具体的な枠組みを与える基盤にもなる。つまり、「 電子商取引(e-commerce)」とは実は「インターネット商取引(i-commerce)」にほか ならないのである。

情報化=インターネット化
マルチメディア=インターネット
NII =GII =インターネット
電子政府=インターネット政府
電子商取引=インターネット商取引


 このような状況の中で、われわれはいかに身を処すべきだろうか。  まず、もっとも基本的なレベルでの「インターネット」の理念に正面から異を唱 え続ける (たとえばB-ISDNの旗を振る) のは、いまや愚かである。世界が「インタ ーネット」の理念にロックインされつつある中で、あえてそれとは異なる理念を打 ち出そうとしても、耳を傾けてもらえないばかりか、異質者あるいは敵として排除 されてしまう危険さえあるというべきだろう。

 インターネットの理念を基本的には受け入れながらも、同じ言葉を使うのは面白 くないという理由で、少し違った言葉づかいをしてみるのも、やはりたいした意味 はなさそうである。私自身、これまで、数年前にアメリカのNRENAISSANCE 委員会が 提唱した ODNという言葉の方が、より普遍性の高い言葉だと考えて、そちらの方を よく使っていたのだが、これはあまり賢明なやり方とは言えなかったように思われ る。実は、ペンシルバニア大学のデービッド・ファーバー教授から、ODN という言 葉はアメリカではとっくに死語になったと聞かされたのは、もう大分前のことだった。

 むしろ、大切なことは、インターネットという大きな枠組みは明示的にまず受け 入れた上で、いわばその中に飛び込んでいって、その枠組み自体の拡大の可能性を 指摘したり、細目についての改良や具体化のための提案を出したり、新しい標準や システムを提示したりすることではないだろうか。表立って賛成するのは沽券に係 わるので、せめて暗黙のうちに受け入れるにとどめておこうという態度も、姑息に すぎよう。それでは、こちらの議論の浸透力や説得力は、大きく損なわれてしまう だろう。
 日本の首相も、次回の施政方針演説の中では、「インターネット」に正面から言 及してしかるべきである。NTT ほかの日本の情報通信企業も、マルチメディア会社 というよりは、インターネット会社として発展していくという目標を、明確に掲げ ていくのがよくはないだろうか。