犯罪の”進化”
孔 健


 いま、日本では神戸の小学生殺人事件が高い関心を呼んでいる。その猟奇性・残虐性もさることながら、十四歳の少年がゲーム感覚で起こした事件ということで、日本の犯罪史上例を見ないものだという。
 この事件では、少年法を見直すべきだという議論も高まっており、さまざまな波紋を広げている。

 中国にも少年犯罪はある。そして青少年保護法で十八歳未満の少年は死刑にはならない。
 ただ中国の少年犯罪は、ほとんどが食べるため、あるいは金を得るためというのが原因だ。もちろん性における犯罪もないではない。
 しかし、それはほとんど少年犯罪においては例外といっていい。

 ところが日本の少年犯罪は、性犯罪の比率がかなり高いと聞く。女性の立場からすれば、性犯罪にまき込まれるより、まだお金を奪われるほうが余程ましだろう。
 だからといって中国の少年犯罪のほうがまだましだと言っているわけではない。
 今回の神戸の小学生殺人事件を新聞、マスコミで見聞して、犯罪というものはやはり”進化”するものだなという思いがしたのである。
 ”進化”という言葉は適切ではないかもしれない。要するに経済的発展によって変化してゆくものだ、ということである。”進化”という表現をしたのは、かつて日本もおそらく少年犯罪の多くは中国と同じ状況であったろうと思うからだ。

 中国はいま、豊かになるために、国をあげて進んでいる。
 そのため、全ての犯罪は富めるため、豊かになるために起こっているといっていい。
 しかし、日本では豊かになるということが必ずしも国をあげての目標となっていないように思える。誰もが中流の意識を持ち、不況といいつつも、おそらく、アジアで最も豊かな(本当の意味での豊かさかどうかは別として)飽食の生活を享受している。

 神戸の小学生殺人事件を起こした少年は、そうした飽食のなかで、生きることのリアリティーを失い、パソコンゲームやビデオ、オカルトの中に、自らのリアリティーを見い出したのではないか。
 富、豊かになりたいという願望はまた生きてゆくという形而下的なリアリティーを持っている。しかし飽食のなかで育った日本の少年は、そのリアリティーを失い、空想の袋小路に迷い込んでしまったようだ。そうした意味からして犯罪は”進化”するものだなという気がした。