インターネット批判の姿勢をめぐって
公文 俊平


 先日、テレビの取材を突然受けた。なんでも、日曜日の朝日新聞の一面に、政府 もいよいよインターネットを使った行政サービスを始めるようにしたという趣旨の 記事がでたので、それについてのコメントがほしいというのである。やってきたテ レビ会社は、ひごろから朝日新聞の報道に対しては批判的な新聞社の系列に属する>会社だった。それは別にかまわないし、私自身、どちらかというとその姿勢に共感 することが多いのだが、今回はいささか調子が狂った。

 インターネットに対する批判的なコメントがほしいというのである。どうやら、 インターネットは混雑していて遅いとか、内容に問題があるとかいった趣旨のこと をしゃべらせたいらしい。そこで、「残念ながらあなたは取材の相手を間違えた。 私は、インターネットは非常に重要なものだと思っているし、政府の取り組みもま だまだ不十分だし遅過ぎると言いたいくらいだ」と申し上げると、それならそれで かまわないので大いにその趣旨をしゃべってほしいといわれる。ただし、放送され る分は、どのみちせいぜいで40秒程度だという。

 それでは、とても詳しい議論はできない。それこそ賛成か反対かという態度の表 明だけのことになってしまう。でもまあ、せっかく来られたのでということで、私 の意見はかなり時間をかけて聞いていただいた。 (最終的にどんな形で放送された か、私は見ていない。) 以下は、その時の私の話の要旨である。
 今の時点で、インターネットは不便だとか危険だとかいった理由で、それに反対 の姿勢を取るのは、非常に問題だと思う。それは、明治維新のころの政府の文明開 化・富国強兵路線に対して、「西欧の文化に染まり過ぎる恐れがある」とか「他国 を侵略する結果になる危険がある」といって、のっけから反対の態度を取るような ものだ。あるいは、戦後の経済発展路線に対して、行き過ぎた物質主義の弊害や自 然破壊の危険を指摘して、反対の態度をとるようなものだ。さらにいえば、自動車 が発明され、やっと普及し始めたころに、資源浪費の恐れや交通事故の危険を説い て、車無用論を展開しようとするようなものだ。

 とりわけ問題なのは、未知のものにたいする恐怖から、あるいは既得権益を失う恐れから、新しいものの導入や開発に反対することだ。 (インターネットを批判す るテレビの下心はそれかと言ってみたくもあったが、それはあまりに失礼な下司の 勘繰りというものだろうと遠慮した。) 新しい発展がもたらす巨大な便益や、わく わくするような面白さの事は無視して、マイナス面だけを一方的に述べたてる姿勢 は、われわれがとるべき姿勢とはいえない。まずは、その歴史的な意味の理解に努 めるべきだ。危険や問題点をあげつらうのは、それからでいい。今必要なのは、基 本的に新たな発展を受け入れて推進するという立場に立った上で、そこにひそむ危 険や問題点から目をそらすことなく、正面からそれに対処して行こうという積極的 な姿勢である。斜めに構えていてはいけないのである。

 危険や問題点ということでいえば、より緊急の問題はそれこそ山のようにある。 交通事故だけで、年々万の単位の人々が生命を落としている。それなのに、自動車 の使用をやめるべきだという世論が盛り上がったという話はきかない。原子力発電 の危険をいう一方で、電力の使用を大幅に減らそう、とりわけ火力発電を根本から 見直そうという意見は、まず聞かれない。干潟で死ぬムツゴロウがかわいそうだか ら干拓はやめるべきだというなら、それ以上に、車にひかれる子供たち、交通事故 で親を失う子供たちがかわいそうだから、車はやめるべきだという議論があっても おかしくない。あるいは、車が犯罪に利用されるケースは非常に多いので、車の利 用を規制しろといった意見があってもおかしくない。 (しかし、もはや車なしの生 活は考えられないし、政府や業界もそれなりの対策はとっている。それに、他人は 知らず、自分や自分の家族が交通事故にあう危険は、事実上ゼロに近い、少なくと も注意すればかなり防げる、と多くの人は経験上思っているに違いない。だから、 車の危険や問題点は、新聞やテレビがあらためて取り上げる種類の話にはならない のである。)

 インターネットも、それが十分に普及した暁には、現在とは比べ物にならない規 模での事故や濫用が発生するだろう。あるいはそれを利用した犯罪が、日常的に起 こるだろう。しかし、人々はいずれはそれに慣れっこになっていく。繰り返され、 予測可能な悪に対しては、人はもはや未知のものへの恐怖と同じ種類の恐怖は抱か ない。日常的にそれに対処するすべを学び、実行するだけである。それは認めた上 で、なおかつそうした悪の規模や程度を可能な限り限定する努力を、真剣にまた粘 り強くはらっていくしかない。 そのような地道な努力こそ、今から始めるべきなのである。もちろん、インター ネットなんか嫌だといえば、そんなものはいらないといえば、すぐ消えてなくなっ てしまうようなものなら、そんな努力は不必要である。だがそのためにも、インタ ーネットはわれわれの生活にとってはかりしれぬほど有用な手段となりうること、 未来の世界では必要不可欠な手段となるに違いないこと、をはっきりと理解してお く必要がある。メディアも政府も、まずはそうした基本的な理解を普及させるため に主力を注ぐべきではないだろうか。

 かつて、ほとんどの人が文盲であった時代に、字を読めない人間がいるから政府 は文字を使うべきではない、と考えた政治家や官僚はいただろうか。電話が一般の 家庭には普及していない時代に、役所に電話はいれるべきではないとか、電話での 問い合わせに応ずる形の対住民サービスはすべきではないとかしなくてもいい、と いった考え方は支配的だったろうか。それなのに、ことがコンピューターやそのネ ットワークとなると、たちまちこの種の議論がまかり通ってしまうのが、少なくと もこれまでの日本の常態であった。政府を批判するというのなら、まずそこから始 めてほしいものである。