日本社会の改革
公文俊平

〔まえがき〕

 古い書類を整理していたら、手書きの未発表原稿がでてきた。共同執 筆の本の一部として準備したのが、何かの事情で仕舞い込まれていたものらしい。一読して、この二十年間われわれの直面している社会・政治問題はほとんど変わ っていないように思われ、あらためて嘆息してしまった。読者はどんな感想をもたれ るだろうか。夏休みのお慰みにごらんに入れたい。以下がその原稿である。あまり長 くなっても困るので一部省略したが、新たに書き加えたところはない。

〔本文〕

 今日のわが国には、共通の利害で結ばれた多種多様な組織ないし集団が存 在している。これらの集団は、それぞれなにがしかの影響力を他の集団や個人に対し て行使する実力をもっているという意味では、パワー集団と呼ぶこともできる。財界 団体や労働組合・農民組合などの組織は、その古典的ともいうべき例であるが、その ほかにも、共通の宗教やイデオロギーを核とする組織、さらには「消費者パワー」「 住民パワー」などと総称されている一時的あるいは永続的な各種の集団など、その例 は枚挙にいとまがない。

 これらの集団は、それぞれ自己にとって有利もしくはより「公正な」形での社会的諸価値の配分状況を達成することを目指して、相互にその影響力を行使し合っている。多くの場合、これらの集団相互間には、その行動を制約するさまざまなルールやモラルが、あるいは明示的にあるいは暗々裡に形成されてくる。とりわけ、最上位のパワーとしての国家機構が効果的に機能している場合には、ルールの形成や強制は、比較的円滑に行われる。多くの場合、競合し合うパワー集団の間で、その台頭ぶりが めざましい者、そのふるまいが傍若無人とみえる者に対しては、他の集団は一致結束して「社会的批判」を試みる。近年の大企業批判、マスコミ批判、スト権スト批判な どは、その例である。こうして、新たに登場する「無法者」はしだいしだいに行儀作 法を学習して、尊敬すべき市民となっていく。

 だが中には、既存のモラルやルールを平然と無視して、「目的のためには手段を 選ばぬ」行動様式を取り続けようとする集団もでてくる。その種の集団の相対的なパ ワーが大きい場合には、パワーへの挑戦はタブーとなり、彼らは一方では社会の鼻つ まみ者とみなされながら、他方では広範囲の行動の自由を享楽し続けることが可能と なる。だが、その行動があまりに目にあまるものとなった時、あるいは暴力や脅迫に 屈しない「勇敢な」挑戦者が出現したとき、タブーは一気に解け、彼らは激しい社会 的批判にさらされ行動様式の変更を余儀なくされることになる。

 1960年代の後半から70年代の初めにかけてわが国でみられたのは、「住民運動」 に代表される新たなパワー集団の大発生であった。そして、われわれがくりかえし警 告してきたのは、競合し合う諸パワー集団のあいだでの「仁義なき闘い」の展開が、 わが国の国家的統治能力の喪失をひきおこし、全体としての政治・経済の機能不全を もたらす危険性であった。他方、われわれが注目し強調したのは、石油ショックおよ びそれに続いて起こった長期不況の過程で、まさにこの種の事態の展開に対する反省 が、国民各層の間に広く見出されるようになったという事実であり、われわれはそれ を日本社会の「復元力」と呼んだ。だが、そのような復元への傾向は、国民個々人の 意識のレベルにおいてはともかく、各種のパワー集団の行動のレベルでは、まだ十分 に自覚されていない(そして、政党のレベルでは、その自覚がもっとも遅れている) 。企業の多くは、石油ショック以後の不況過程で、雇用水準の維持や――そして恐ら くは物価水準の維持にも――多大の努力を現実には払ってきたが、意識の面では、そ れを一種の敗北と考える傾向が強い。企業の体質改善や国際競争力強化を妨げるとい う理由からである。同様に、労働組合は、75年、76年の春闘においては、現実には状況のきびしさを認識し、比較的低い賃上げ水準を甘んじて受け入れた。だが、意識の面では、これを労働運動の敗北と規定している。

 今日のわが国の政治の改革にとって最も必要なことは、既存の政党レベルでの勢力の再編成や制度いじりではない。それらには、第二義・第三義的な意味しかない。もちろん選挙制度の改革や「ロッキード防止法案」のたぐいが、全く無意味であるとはいいきれない。しかし、それらの制度改革によって腐敗や汚職が根絶できるはずはないし、異なった制度はそれに固有の欠陥を持っていることも確かである。いうまでもないが、そもそも完全な制度なるものは存在しえない。また、既存の制度が導入され維持されているについては、それなりの積極的な理由が存在していることが普通である。既存制度がもつ否定的な側面にのみ眼を奪われて提案される改革案は、往々にして、「角を矯めて牛を殺す」効果を持つ。その意味では、制度改革は慎重の上にも慎重であった方がよい。

 今日のわが国の政治の改革にとって最も必要なことは、各種パワー集団相互の関係の再編成であろう。存在するものは、なんらかの程度に合理的であるとするならば 、既存のあらゆるパワー集団は、全国家的な権力機構の中に、それぞれの所を得せしめねばならない。そのためには、各パワー集団は、なによりもまず他者の力とその存在の正統性とを互いに承認し合い、その上で互いの協力と連帯の途も探ることが必要である。互いの行動をある範囲内に抑制しうるためのルール作りや、ルールの形成と強制とを可能にするような上位の組織を作ることが必要である。そのような上位の組織こそが、再生すべき安定的な多数党にほかならない。各パワー集団が、それぞれ政府を食い物ににすることを競い合ったり、それぞれが被害者意識を持って自分だけが「正義の旗手」として振舞おうとしたのでは、大連合は形成しうべくもない。同時にまた、派閥の利害しか眼中にないようにみえる自民党内の権力闘争を批判しうる資格もない。産業界、労働界、農・漁民団体等々の「生活人」の組織は、いたずらに既成政党への批判と要求をもっぱらにするよりは、自立と連帯を原則とする和解と協調的競争に向けて、まず自らがその第一歩を踏み出すことこそ肝要であろう。そして、自分たちがこの国の国家権力の基盤を構成し、政権を担当する与党を支えているのだと いう権威と責任とを自覚すべきであろう。

 同時に、これらの生活人集団は、なるべく多種多様な依存人集団に対して積極的 に門戸を開き、自らの内部に依存人たちを再吸収する試みを行うべきである。依存人 や「弱者」の面倒は国がみるべきだ。それが福祉国家のあるべき姿だ、といった考え 方ほど今日のわが国にとって破壊的な考え方はない。まず税金を国家に収め、次いで 国家の手によって「福祉」を実行しようとするのは、効率的でもなければ社会的統合 に寄与する途でもあるまい。それは財政危機――負担の転嫁競争の結果としての―― と相互不信感と歪んだ負い目の意識をもっぱら培養する結果に終わる危険がある。  とはいえ、文字通りあらゆるパワー集団をすべて包括しうるような大連合の形成 は、実際問題としては不可能であろう。なんらかの形で大連合から取り残されたり、 大連合への加入を拒んだりする集団は、必ず発生する。新しい安定的多数党に対する さまざまな少数野党の形成と残存の可能性は、この点に求められる。そして、どのよ うな野党がその場合に成立・残存するかは、今後形成されるべき大連合の性格と範囲 に依存することになるだろう。  わが国の文化的・社会的背景から考えて、いわゆる二大政党制はわが国の風土に はなじまない。同じことは小選挙区制や大選挙区制についてもいえる。現行の中選挙 区制は、恐らく日本人の経験と英知の所産である。諸派閥のゆるやかな連合体として の安定多数与党という統治形式もまたそうである。このようないわば経験によるテス トを経て生き残っているシステムは軽々しく変更すべきではないし、また事実の問題 としても変更は困難ないし犠牲多きものとなるであろう。

 とりわけ危険なのは派閥解消論である。わが国の場合、多少とも大規模な組織に あっては、派閥の発生と存続は事実上不可避である。派閥の解消の試みは、そのような大組織の分裂をもたらすか、さもなければ高度な中央集権化と党官僚による全体主 義的独裁体制をもたらす。いずれも、代替案としては、派閥存続型のシステムよりは るかに望ましくないと思われる。人脈・金脈による派閥は「前近代的」であって望ま しくないが政策派閥ならまあよい、という見解も、「人よりは党を」という投票基準 が一見近代的・合理主義的にみえながら実はさまざまな難点を抱えているのと同じ程 度に、疑問の多い見解である。ある特定の政策ないし一般的な政策路線の望ましさは 、状況によって大いに変化しうるばかりでなく、状況に対する認識の深化によっても 変化しうる。たとえば、「いままで独禁法はいいものだと思っていたが、よく勉強し てみるとむしろ悪法だ」、といったたぐいの見解の変化は比較的容易に生じうる。し たがって、政策派閥は、離合集散を常とする不安定なものとなるか、さもなければ非 現実的な固定したイデオロギーを墨守する集団となる危険がある。さらにいえば、個 人や集団の利害関係は、ほとんどの場合極めて多岐にわたる。多岐にわたりしかも変 転常ならぬ利害関係の錯綜する状況のもとで、人びとがなお相互の信頼や協力関係を 多少とも恒常的に維持しようとすれば、そのつながりの基盤は、結局のところ「全人 的」(金脈をも含めた)な信頼関係に求める以外にないであろう。

 派閥は、その中に異なる政策意見や利害関係を持つメンバーをそれぞれ含んでい てこそ、始めて派閥として機能しうる。つまり、その相対的自律性や全体性を維持す ることができ、多数党の内部での「政権交替」の可能性を保証する存在となりうるの である。いうまでもなく議会において多数をしめる党派が政権を担当することこそ、 現行憲法の下での「憲政の常道」なのである。多数党の内部での複数の派閥の存在は 、この「憲政の常道」の円滑な機能を支えるための制度であるといわねばならない。