マクナマラ回顧録を読んで
多比羅悟

 評判になっていたロバート・マクナマラの回顧録を、夏になって、やっと読んでみ た。マクナマラは、ケネディ、ジョンソン両政権下で国防長官を務めた人物で、本の 焦点は、いうまでもなく、ベトナム戦争である。
 一般に、自伝だの回顧録だのは、美化・宣伝と自己正当化で満ちあふれていて、読 むには忍耐を要す。とりわけひどいのは、政治家、軍人、官僚など、公的な仕事に就 いていた人達である。マクナマラの翻訳本が出てから2、3ヶ月経って、やっと読み 出したのは、そんな理由による。回顧録を読んだのは、ゴードン・ムーアの「インテ ルとともに」以来である。

 「マクナマラの戦争」と言われたほど、マクナマラはベトナム戦争に関与した。こ の回顧録で、マクナマラは、自分を美化したり、言い訳をしているわけではなく、自 分の犯した過ちとその過程をかなり客観的に書いている。それでも、やはり、本書が 出版されると、賛否両論が巻き起こった。ニューヨーク・タイムズやデビッド・ハル バースタムはかなり辛辣にこき下ろしている。
 私自身は、国防長官辞任後の行動から、マクナマラという人物は頭はよいが、かな りの脳天気野郎だと思っていたのだが、本書を読んで同情的になった。自伝の類で、 これほど客観的に書かれているのは珍しい。深読みをすればきりがないが、マクナマ ラは、少なくとも本書では自己の過ちを反省し、言い訳をしていない(同僚達への評 価が甘いことが、ハルバースタムには誠実さを欠いていると映る)。
 これは驚異的なことである。と言うのは、ベトナム戦争の評価やアレルギーが変貌 しつつある今であれば、彼は言い訳をしようとすればできるのだ。本書に対して賛否 両論があると書いたが、彼を糾弾する人は、必ずしもニューヨークタイムズやハルバ ースタムのようなリベラル派だけではない。「ベトナム戦争は正しかった、米国は正 しかった」と明示されていないことに立腹した人もいるはずだ。

 日本でも、政治家や外交官、旧日本軍の上層部の回顧録が数多く出版されているが 、そのお粗末さはここで論ずる必要もないだろう。それらに較べれば、マクナマラは むしろ高潔な感がありさえする。1970年頃に出版されたベトナム白書に較べ、特に新 しいことが書かれているわけでもない(その白書を読んでいない私にとっては新しか ったが)のに、日本の多くのジャーナリストや経営者が、この書籍を推薦するのは、 マクナマラの姿勢にうたれたからであろう。
経済評論家のA氏は、戦争設計に関する著書において、マクナマラはベトナム戦争を数値 でとらえたから失敗したと批判している。マクナマラは、敵一人を倒すには小銃弾30 00発必要という計算を立てていたというのだ。A氏は、敵が減れば弾が当たりにく くなるから、この計算は無意味だなどと余計なことを続け、読者を大いに落胆させて いる。戦争を数値化することに意味がないと言うことの矛盾に気づき(同書の中では 旧日本軍を批判している)、やむなく、重箱の隅をつついた感じである。

 大統領と戦争運営者と将軍と軍曹では、それぞれ担う使命は異なる。国防長官の立 場で結論を言うと、戦争は数値化できれば勝ちなのである。戦争運営を数値で示され る計画の遂行に置き換えられれば勝ちなのである。これは、大変複雑で根気のいる作 業であるが、効果は絶大といっても良いだろう。だから、数値としてとらえようとす る努力は正しい。
 また、マクナマラは、ベトナム戦争を数値化していない。試みたができなかったの だ(無論、A氏が例にあげた敵兵1人に小銃弾3000発のような単純な数値化ではな い)。矛盾する報告、正しくないデータがたくさん紛れ込み、マクナマラはデータの 仕訳と精度鑑定で手一杯になってしまった。そのため、適切な戦争指導ができなくな ったのである。

 A氏は、日本を代表する知識人である。その彼ですら二重の誤りを犯している。 これが日本の知識人の限界である。なぜ、日本の知識人には、マクナマラがやろうと したことが理解できないのだろうか。この疑問は、日本の言論の論理的脆弱さの問題 と根は同一と考えられる。
 1950年代、マクナマラはフォードで優れた実績を残した。彼は、コンピュータを用 いて状況を整理・分析し、推論をたてた。本当は語弊があるのだが、「状況を数値化 し、ロジカルな経営計画をたてた」と表現することもできよう。

 ところが、日本の名だたる知識人は、ほとんどが文科系出身だ。理工系出身者もい るが、私の見たところでは、数学は苦手であるうえ、統計学的知識も不足している。 彼らでは、コンピュータを使ってデータ処理をすることすらできない(ワープロくら いは打てるだろう)。数字を駆使できないので、レトリックだけで論を展開するため 、情緒的で間違いも多い。彼らでは、マクナマラのやろうとしたことを(理屈として はとにかく)本能的には理解できないし、戦争(あるいは競争)にも勝てまい。
 戦争(そして国際競争)のような問題を論ずることは、既存の知識人には荷が重い 。最近、甚だしく精彩を欠いているため、名を挙げにくいのだが、最も有名というこ とで例示したとすると、大前研一氏のようなエンジニア出身の国際ビジネスマンか、 これもはなはだヨイショが過ぎると思われるので、名を挙げにくいのだが、最も身近 ということで例示したとすると、日本電算機の石井孝利氏のようなエンジニア出身の 経営者に、日本の言論を形成してもらいたいものである。ちなみに私は文科系、それ も創造性や科学的アプローチとは最も隔たっている法学部の出身である。